おはよう台湾

おはようから台湾まで

友達

思春期の中学生みたいなことを言います。

みなさんには「友達」と言える人はいますか。顔を浮かべることはできますか。

 

実は、わたしは今大きな問題にぶち当たっておりまして。

いえ、わたし自身は大した問題ではない、と思っているのが問題だそうなのです。

 

わたしには「友達」という存在が一体どういったものか理解出来ません。

 

「好きな人」はいます。やさしいとか、かわいいとか、一緒に居て楽しいとか、ワクワクするとか、そういう人。

でもね、それが「友達」であるか、というとなぜか頭にクエスチョンマークが点ってしまい、判断できなくなってしまいます。

その人たちに何でも包み隠さず話して、涙を流したりとか、その人たちのために何かを投げ打ってまで助けてあげることは出来るか?

わたしの答えは本当に素直に「ノー」です。

なぜ「ノー」なのか。一番の理由は「それをしても利益がない」から。

 

「どうせ、この人とは今だけの付き合いだし。この数年間が終われば、付き合いだって終わるし。」

そうじゃないですか?「友達」って、流動的で、付き合いなんて簡単に無くなって、いつの間にか他人みたいな存在になっている。

 

でも、便宜上彼らのことを「友達」と呼んでいます。だって、世間では「友達」がいないと変なのは知っているので。簡単な助け合いだってするし、LINEでマメに連絡だって取るし、「友達の会話」っぽいことは出来ます。だってそれが出来ないと世間では変なのは知っているので。

 

同居人はこの点について、わたしの考えを改めさせたいそうです。

彼は、自分の人生の一部を投げ打ってまで、わたしに何かあったら助けたいと思っているそうです。なぜなら大切な「友達」だから。

もうこれを聞いた時には頭の上がクエスチョンマークだらけになりました。

「いやいや、そんなに本気で助けてもらったとしても、わたしは何も返せないよ。そんなことしないでくれ、ものすごく重荷だ。」

それに、こんな海外で明日の保証もない外国人がずっと一緒に生活していけるわけないじゃないか。その間にしてもらった分を返してあげることなんて出来ない。

 

わたしは最近、この考えが世間ではおかしいということを知りました。

だから、おかしいと理解しつつ、この文章を書いています。

同居人は、わたしのこの考えを知れば悲しむ人がいるだろうと言っていました。わたしはこの記事を見て悲しむ人がいるのだろうな、と予想しています。

 

「わたしはもっとおかしいと言われて、自分がおかしいことをもっと理解すべきだ」と思ったので、この記事を公開します。そして、この考えが本当に人を悲しませるんだということを知るためにも。(わたしもさすがに、知っている人が悲しむのはよろしくないなと思うので。)